KUSHIZZI PROJECT  櫛橋 茉由

KUSHIZZIPROJECTオフィシャルブログ

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最近のJーPOPはさ、という自論に対する謝罪。

youtu.be

 

 

多分ブログからは見れないよな。Youtubeに飛んでください。

 

’’「今ある命を精一杯生きなさい」なんて 綺麗事だな。 精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ 鳥になって 雲をつかんで 風になって 遥遠くへ 希望を抱いて飛んだ’’

 

 

 

ほかの国の言葉を話すから、わかるんだと思うんだけど、

 

 

日本語はあまりにも繊細で、美しく、そして儚い言葉が多い。

 

同音異義語が多い。

 

 

飛ぶ にしても、跳ぶ のか 飛ぶ のか、 それともちょっとあの人ぶっ飛んでる

みたいな人間性への表現なのか。

 

 

JUMP なのか FLY なのか。

 

 

またぶらぶらしていたら、出て来た歌。

 

 

 

 

痛い。

 

 

 

 

最近のJーPOPはさ、とか、日本の歌なんかさ、とか

洋楽の方がいいよ とか思っている自分がいたのだけど

そりゃエドシーランだとかコールドプレイだとかはいいよ。

 

それでも日本語で歌を書くということに意味があるし、

その日本語の意味を汲み取るということに価値がある。

 

英語は全世界共通して、伝わる。大きく、そして時には切なく。

 

 

 

けど日本語の歌を理解できるのはネィティブの日本人か、

よっぽどこの難解で不可解な言葉を愛し、学んだ人たち。

 

 

マッキーの僕が一番欲しかったもの もさ

カバーのGIFT より 絶対に日本語の歌詞の方がいい。私はね。

 

 

 

 

この歌の世界のように、 最終的に飛ぶことを選ぶ世界は、

遠い話のようで、本当に身近にある。

アスリートとしても、学校としても。

 

 

死を 選ぶ人に 何もできないのかもしれないけれど、

 

それが間違っているなんて、否定することはできない。

 

 

 

今日読んだ糸井重里さんの言葉集に、

 

 

自分は自分の所有物ではない

 

っていう言葉がすごく引っかかっていて、

 

 

自分は自分のものではないなんて、では誰のもの?

いや、誰も誰のものでもない。

 

ただそこに存在するだけ。

 

 

所有していると考えるから、好き勝手やっていい。いや、違う。

 

家族がいて、大切な人がそばにいるはずだ。自分だけで完結するのは間違っている。

 

 

しかし、そんなことももうどうしようもないくらい、

 

 

 

人間は追い詰められると、

 

 

頭の中で枠から抜け出せなくなり、

 

もうどうしようもない行き止まりにぶつかる。

 

それでも、

 

生きていたいんだよな。

 

 

 

 

 

大人になった今。本当に何もできないけれど、

何かはできると思う。

 

 

例えば、発信することで、

 

選択肢を知ってもらうことができる。

 

 

言葉で、寄り添うことができる。

 

 

 

生きたい。 

全て終わって真っ暗になる世界より、

鼓動を刻む世界の方が、可能性があるだろう。

 

 

生きたくないようになる社会が問題だ。

 

 

生きたくなくなる環境が。

 

 

 

 

きっと私は教師になったら、こういう活動をしていただろう。

 

 

 

しかし、その道は選ばない。

 

 

 

もっと、大きな枠で、何かを変えることができるはずだ。

 

 

 

 

一対一でやれることには限界がある。

発信して、

 

 

1対 何千にもなる方法をあみ出せ。

 

 

 

 

それが日本語だけでなく、様々な国と繋がって。

 

 

 

ああ、私にこんなことを考えさせるこの歌詞よ。

 

 

 

 

最近のJーPOPはさ、ビミョーよな。っと言っていてごめんなさい。

 

 

 

 

 

選べば出てくる。

 

 

 

 

 

そんなことをキーボードを叩きながら考える夜。